司馬さん一日一語☞『雲水』


雲水という
ことばは、
禅宗だけのもの
である。


『広辞苑』によると

「(行雲・流水のようにゆくえの定まらぬことから)所定めず遍歴修行する僧。行脚僧」ということになっている。
のちに文学者(俳人)として名を知られるようになった種田山頭火などは、最後の雲水ではなかったろうか。
句はつよい自己愛(ナルシシズム)を感じさせる。
 うしろすがたのしぐれてゆくか
自己を舐めるとき、悲愴という甘美さを感じるひとだったのだろう。

禅の到りつくところは、他者までが照らされるはずの光明である。

が、たれもがそこに到れるわけではないから、せめて自分を吹く風のようにしてしまえば、境地として上等のほうだろう。
雲水(うんすい)はそのための修行で、行く雲や流れる水のように自己を化してゆかねばならない。
ところが、禅のむずかしさは、悟ろうが悟るまいが、人間はすべて死ぬことにきまっていることにある。
人生は行雲流水である、とわざわざいわなくても、王侯の生涯も行乞の生涯も、雲のようにさだめがたい。
であるのにわざわざ、「雲水」という姿に身をやつして漂泊を演ずる必要もないのだが、山頭火はことさらにそれを演じたのである。
演じ、かつ自分一人が観客席でみるというのが、自己愛である。
むろん、その自己愛を昇華した句が、山頭火にはたくさんある。

☞出典:『街道をゆく』34
大徳寺散歩、中津・宇佐のみち(朝日文庫)

 

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