司馬さん一日一語☞『北前船』


大坂湾を中心に考えれば
ここから下関へゆき、
ぐるっと北へまわって
日本海岸の港々に
寄りつつ奥州へゆき、
蝦夷地へいたる。
この航路や船のことを、
「北前船」といった。

江戸時代、大坂湾から蝦夷地(北海道)へゆくのに太平洋航路は危険であった。
おそらく難所は、遠州灘と銚子から北のほうの鹿島灘、それに最大の難所は三陸沖だったであろう。

このため「東まわり」といわれる太平洋コースよりも、多くは日本海航路がとられた。
大坂湾を中心に考えればここから下関へゆきぐるっと北へまわって
日本海岸の港々に寄りつつ奥州へゆき、蝦夷地へいたる。
この航路や船のことを、
「北前船」(きたまえぶね)といった。
前というのは、男前、江戸前といったふうに、意味のない接尾語とみていい。
江戸初期には、北陸の諸港から下関経由で大坂までであったが、
江戸時代の経済が充実するにつれてしだいに航路は北へのび、
幕末のすこし前には蝦夷地までのびた。
この船の発着地はすべて栄えた。その最大の繁栄をになったのが、
長州藩の諸港であった。長門では下関、周防では三田尻であろう。

維新後、汽船の発達で北前船が衰え、下関も三田尻もさびれる。

 

☞出典:『街道をゆく』1
甲州街道、長州路ほか(朝日文庫)

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