司馬さん一日一語☞『玄関』


玄関は、
鎌倉・室町のころ、
禅寺の僧堂の入口の
ことをそうよんだ。

やがて、公家や武家の屋敷に、この名称がひろがった。
鎌倉・室町の禅には、老荘の哲学が多くふくまれている。
“玄”は、老子の好む語だった。
くろぐろとして奥深く、いかにも物が生(あ)れ出ずるような混沌を感じさせる。
玄関とはその生れ出る玄(くら)さへの関所なのである。

むろん、いまではただの建築用語になっている。
しかし、気構えを張りつめた料亭の玄関というのは、たとえ造形様式が近代化していても、原義の精神が遺伝としてまもられているものである。

客人(まろうど)の側にもその気分がある。
露を踏んで玄関に立った客人は、能の湧き出でる幽かな玄さを、心のどこかで感じているはずで、それが文化であるといえる。

客の古語がマレビト(まろうど)であることは、周知のとおりである。
マレは稀で、日常そこにいる人ではなく、ときにその座敷には、文字どおり一期に一会になる場合も多い。

どの客も、常世の神が、常世の国からきたのだという信仰が、日本のむかしにあった。
そのように客をマレビトとしてかすかながら神聖視する気分が、日本の第一級の料亭には、ごく自然に残っている。

そのマレビトに仕える芸妓・仲居は、職業として上代の巫女の末裔のようなものだといえそうである。
この要素をすこし濃くすれば、大相撲だけが神事でなく、
日本の第一級の料亭の座敷もまた神事であるといえなくはない。

☞出典:南地大和屋著
「大和屋歳時」(柴田書店)序文

 

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