司馬さん一日一語☞『言路洞開』


世論を政治に反映する
という意味で、たとえ
過激者の意見でも
政治当路の者は
よく耳を傾ける
ということである。


文久元年、二年というのは桜田(井伊直弼の暗殺)のショックもあり、幕府の威信が地におちたどんぞこの時期で、
しかも幕府の当路者も「言路洞開」(げんろどうかい)という言葉をしきりにつかい、流行語のようになりはじめた。
これがために、雄藩の大名や幕府の老中に一介の他藩士や浪人が面会して大声で意見をのべるということがしばしばおこなわれた。
徳川政治はじまって以来世論というものがはじめて意味をもった存在として登場した時期である。

京都での治安対策として幕府は会津藩兵千人を京に常駐させ、藩主松平容保を京都守護職という非常の職につけた。
容保は京都にきた早々は、治安はあくまでも非武力主義によるものとし、「言路洞開」をしきりにとなえ、浪士たちの意見をできるだけきこうとした。
しかし浪士たちの運動にテロという異常の習慣がついてしまった以上、かれら自身の自制力によってその狂気を停止せしめることはできないものらしい。
テロは結局は、そのテロを封じるためのテロによってしか終息しないということを松平容保が気づいたとき、文久三年春、かれはその支配下に新選組という官製のテロ団を置くのである。

<武市半平太—映画「人斬り」で思うこと>

☞出典:『歴史の中の日本』(中央公論社)

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