司馬さん一日一語☞『スキタイ』


紀元前六世紀から
前三世紀ごろにかけて、
黒海北岸の草原地帯を
騎馬でかけまわっていた
イラン系の民族

スキタイのひとびとは二つの発明を人類に遺したことで知られる。
一つは馬の背にじかに乗るという、それまで人間が思いもつかなかった方法であり、一つは、野生の動物の群れの中に人間が入りこんで動物と一緒に移動する—遊牧—という生活法であった。
この生活法は水の乏しい草原に住む諸民族に重大な影響をあたえ、スキタイが亡んだのちも、東へ伝播し、中央アジアを経て(農耕圏の中国を通ることなく)北アジア、さらに東北アジアにいたるまでのアジア系諸民族を、この文明にまきこんだ。

☞出典:「古往今来」
(中公文庫)

遊牧という生産形態を、暮らしのシステムとともにつくりあげ、不動の文明(たれでも参加できる文化)として確立したのは、中国からみればはるかな西方のスキタイ民族であった。
この民族は、まず人間が馬に乗るという騎馬を成立させた。
移動用住居であるフェルト製の天幕(ユルト、パオ、ゲル)や、野菜を摂らずとも十分にその不足を補う馬乳の醗酵液などを用いた。
スキタイは、その華麗で精巧かつ生気に満ちた青銅工芸と金細工をのこしてほろんだが、その文明は東へすすみ、葱嶺(パミール)、天山、アルタイさらにはモンゴル高原にいたる草原(ステップ)地帯に多くの遊牧民族をうみあげた。
それ以前、かれらはおそらく狩猟人としてそのあたりに散在して暮らしていたにちがいないが、この文明の東漸とともにあらそって参加したのであろう。
人種的には黄色人種と思われる匈奴国家がモンゴル高原にその姿をあらわすのは、紀元前四世紀の末である。
五世紀にわたって、南方の黄土農業帝国に圧力を加えつづけるが、『史記』に記載される匈奴の生活様式が、イラン系とされるスキタイとそっくりであることに驚かされる。

かれらはスキタイ風の青銅製帯鉤(バックル)を用い、騎射をおこない、硬質に合金された青銅の鏃の矢を飛ばした。

☞出典:「歴史の舞台」
(中央公論社)

 

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