司馬さん一日一語☞『弥生』(やよい)


紀元前三世紀ごろに
稲が北九州に伝来し、
紀元約三、四世紀に
いたるまでを
弥生時代という。

江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で、町名などはなかった。
明治二年(1869)政府に収容されて、それでもなお名無しだった。
明治五年、町家ができはじめて、町名が必要になった。
たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸徳川家九代目の斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その詞書に「ことし文政十余り一とせという年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったから、弥生(やよい)をとった。
弥は「いや」である。弥栄というようにますますという、プラスにむかう形容で、生(おい)は「生ひ」で、生育のこと。草木ますます生ふるということである。
弥生というような稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない。
縄文土器という呼称も、モースが大森貝塚から発掘した土器を分類したとき、土器の面につけられた縄目の紋様に注目し、この紋様に共通性があることに気づいたことからおこった。

さて、弥生のことである。紀元前三世紀ごろに稲が北九州に伝来し、紀元約三、四世紀にいたるまでを弥生時代という。
稲の渡来は、日本人のくらしを一変させた。
コメだけではなく、鉄器から土器、藁製品にいたるまでセットになって伝来した。
さらには水田のそばにムラがつくられ、日本社会の原形ができあがった。
イネは、走るようないきおいで東方につたわり、この本郷台の端に達したのは—-というより弥生町で発見された弥生式土器の年代は弥生中期(紀元前後)であった。

☞出典:︎『街道をゆく』37
本郷界隈(朝日文庫)

 

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