司馬さん一日一語☞『于闐』


東大寺という存在と、
その根本経典である
『華厳経』の
ふんい気を感じるには、
古代于闐国の存在は
外せない。


正確にいえば、

東大寺は古代于闐国の文化がゆきついた端であるともいえる。
古代の于闐(うてん)は、
タリム盆地の南辺(西域南道)の代表的国家であった。

そこに住んでいたひとびとの顏は、ちょっと信じがたいほどのことだが、西洋顔だった。
イラン系の血も濃厚に入っていたし、紀元前、はるかにアジアまできたギリシアのアレクサンダーの兵隊の血も濃厚に入っていたはずである。
于闐語は、インド・ヨ−ロッパ語族に属していた。
古代インド人は、于闐国のことを、「クスタナ」とよび、
チベット人はリーとよび、
あるいはウテンとよんでいた。

ウテンの音を、古代の中国人が漢字にあてはめたのが、于闐である。

—于闐国こそ、東西文明が合流した夢のような国だったのではないか。
この町は、いまは、和田(ホータン)とよばれている。
—いにしえの于闐が、なぜ和田になったのでしょう。
と、土地のひとびとにきいてみたが、十分な答えがえられなかった。同行の中国語学者藤堂明保教授が、つぶやくように、
「秦漢時代、いまの于は、ホーと発音していたんです」
といわれたのには、学問というものの凄みを感じた。
于闐が、その後、和闐になったりしたが、いまはむずかしい闐が廃され、田があてられて、
和田と表記されるようになった。
日本ではちかごろ「ホータン」と、カタカナ表記されている。

☞出典:『街道をゆく』24
奈良散歩(朝日新聞社)

 

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