司馬さん一日一語☞『好色という文化』


江戸文化から、
その要素を除くと、
成りたちにくい。

ただこの好色のふるまいには、
歌論でいうところの“長高し”(たけたかし)という格調がなければならなかったようである。
さらには、よき好色の場は、江戸の吉原、京の島原、大坂の新町、あるいは長崎の丸山といった名だたる遊里でなければならないとされた。
たとえば、吉原の大籬(おおまがき)には松ノ位の太夫などとゆゆしくあつかわれる者がいて、それぞれ禿(かむろ)を従え、廓の事務官ともいうべき仲居の介添えをうけつつ、いわば五彩の雲に乗っていた。
彼女たちは俳諧、茶の湯、書芸、あるいは琴その他諸芸に堪能で、
ときに連歌の宗匠もおどろくような歌の詠み手もいた。

部屋には第一級の道具をそなえ、道具のなかには、鬢水(びんすい)入れというあでやかに絵付した四角い焼物もあった。
これに水を満たし、美男葛の蔓を五、六寸に切ったものを入れ、ふたをしておく。
櫛をつかうとき、これにそっとひたしてとく。髪に香りがのこるのである。
太夫のなかには、小判をめずらしそうにながめて、
「おや、これは鬢水入れのふたかえ」という浮世ばなれした者もいたという。

それほど彼女たちは世智に疎く育てられた。
むろん、ありようは買われた身である。
客に金で買われる身であることも、わかりきっている。

賤しい身であり、たれもうらやましく思わない境涯であったことも、世間が承知していた。
それらを自他ともに知りぬいた上での世界で、客がそのかりそめをおもしろがってくれなければ、遊里の文化はなりたたない。

出典:『司馬遼太郎全舞台』(中央公論新社)

 

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