司馬さん一日一語☞『浄土』(じょうど)


浄土は地理的に
西方にある。
そこに光明そのもの
というべき
阿弥陀如来が
おられて、
いっさいの人間を
救ってくださる
というのである。

覚鑁(かくばん)は「密厳浄土ということをさかんにとなえた」人。
空海がひらいた真言宗(密教)のはるかのちの僧である。

宗祖の空海は『菩提心論』のなかで“菩提心とはとりもなおさず密厳浄土のことだ”と説いたことがあるが、覚鑁はこれを発展させたといってよく、この異説のため四十九年の生涯は栄光につつまれつつも、高野山などの「正統派」から攻撃にさらされつづけた。
いまでも「正統派」は古義真言宗とよばれ、大学として高野山大学がある。覚鑁を祖とする派は新義真言宗とよばれ、大学として大正大学がある。
新義は、京都の智積院、大和の長谷寺、関東の川崎大師や成田のお不動といった名刹肉山をふくんでいる。
ところで、平安中期ごろから、日本では西方浄土(さいほうじょうど)への信仰がさかんになった。
後年、法然・親鸞によって大完成する浄土信仰のことである。
「浄土」ひょっとするとキリスト教の天国に似たもので、解脱を唯一の目的にする本来の釈迦の仏教にはなかったものである。
浄土は地理的に西方にある。
そこに、光明そのものというべき阿弥陀如来がおられて、いっさいの人間を救ってくださるというのである。

釈迦にとって、飛びあがるほど非釈迦的な思想なのだが、ともかくもそういう思想が成立し、ここで、仏教は自力で解脱すべき体系ということから、解脱せずとも他力(阿弥陀如来)で救済されるというずぼらな—というよりありがたくも異質な思想が共存することになった。

 

☞︎出典:『街道をゆく』32
阿波紀行、紀ノ川流域(朝日文庫)

 

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