司馬さん一日一語☞『道路』


日本の道路は
昭和三十年代の後半から
にわかによくなったが、
それまではとても
文明国とはいえないほど
のひどさだった。

明治以前の日本人の道路感覚は、路幅は馬一頭が通れる程度でいいというほどのものであった。
明智光秀が丹波亀岡を発して不意に京都を衝き、本能寺の織田信長を攻めたときの亀岡発京都までの三本の旧道をしらべたことがあるが、あぜ道に毛のはえたほどの路幅でしかなかった。
光秀の人馬は一列縦隊ですすんだであろう。
ときに二列になったかもしれないが、いずれにしても一列では行軍にずいぶん時間がかかったにちがいない。
光秀の京都を衝く行軍が三つの梯団にわかれ三つの道をとったとされるのは、戦術的配慮よりも行軍速度をはやめるためだったとおもわれる。
古代ローマ人にとって道路は堅牢な構造物だったが、ローマ人のように牽駕式の戦車を通す思想をもたなかった日本人にとって、道路は二つの足の裏をのせる程度の幅をもった雑草の生えていない小空間であればよく、堅牢性などはまったく必要がなかった。
ローマ人の道路思想がやがてヨーロッパ人のそれになって相続されるのだが、日本人はそういう気のきいた先祖をもっていない。
中国の都市の道路もひろい。
古代中国も牽駕式の戦車が戦力の中心であり、都城はそれを往来せしめるだけの道路をもつことが必要だった。
日本は平城京や平安京においてその真似をしたが、しかし戦車をつかった経験が一度もなかったために実際にはそれほどの道路は必要がなかった。
車といえば王朝のころは貴族は牛車で都大路を往来したが、しかしひとたび旅をして地方へ出ると道中車を用いることがなく、荷物は荷駄ではこばれた。
江戸時代でさえ、東海道は車が往来しなかったのである。
大名行列も大名は駕籠であり、家来は徒歩で、荷物は馬の背に載せてはこばれ、車は用いられなかった。
日本人ほど車の要素のすくない交通史を持った民族は世界でもまれではないかとおもわれる。
要するに日本にあっては道路がりっぱである必要がなかったのである。

 

☞出典:『街道をゆく』4
洛北諸道(朝日新聞社)

 

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