司馬さん一日一語☞『製紙』(せいし)


製紙法がいつどこから
伝わったものなのか
正確に論証しがたいが、
ふつう『日本書紀』の
推古天皇十八年春三月の
くだりがよりどころに
なっている。

高麗王の命によって渡日した僧曇徴が、その年、製紙、製墨、あるいは彩色の法をつたえたという。
僧がつたえたというあたりに、意味がある。
当時の寺院のしごとの半ばは、お経を筆写することであった。
写経には当然紙が要る。
当時、官庁はなお木簡や竹簡をつかっていた。
そのことは奈良朝の出土物であきらかである。
紙はなお貴重で、日常の事務より、主として辞令などおもおもしい沙汰のためにつかわれていたかと思える。
ともかくも、紙の圧倒的な需要は、寺にあった。
平安期になると、政府指導のかたちで紙が増産された。
製紙は原則として中務省(なかつかさしょう)の図書寮でとりあつかわれていた。

図書寮は、製紙の越、美濃、出雲、播磨などに命じたが、それらの土地に、その後も和紙製造の大きな伝統が息づきつづけたのは、おもしろい。
美濃紙、播磨の杉原紙などは有名である。
杉原紙は鎌倉期に著名になり、とくに糊を入れたのは糊入紙とよばれ、慶弔用や日記のために用いられた。

平安期から鎌倉にかけて、仏教がほぼ日本国くまなくゆきわたってゆくにつれ、和紙はどの国でもつくられるようになった。

さらに室町期になると、貴族や僧のあいだで、紙は洟をかむための消耗品になり、江戸期に入ってその風が一般化する。
鼻紙になるまでにいたるこの需要の盛行は、紙を発明した文明史をもつ中国、あるいはヨーロッパの同時代において、考えられないほどのことだったのではないか。
原因は、はっきりしている。
日本が多湿で樹木の復元力が旺盛であることによったであろう。
紙の原料であるみつまたやこうぞなどの樹がらくに栽培でき、年々枝や幹を切っても、すぐもとに復するという自然条件がなければ、あれほどに普及し、安価になるはずがなかった。
日本人の記録好きは、江戸期になると、社会のよほどの下の層にまで及んだ。
識字率も、大きくあがった。

江戸後期では、あるいは世界一だったのではないか。
江戸期の庶民の初等教育の場は、いうまでもなく寺子屋であった。
ここで用いられる往来物(初等教科書)は、江戸中期以後、各地でおびただしい種類と部数が出版された。
すべて安価なものであったが、初等教科書を安価たらしめたのは、紙のやすさによる。
繰りかえすようだが、
江戸期の社会という、識字率のおそろしく高い社会を成立させた要素にひとつは、紙の奇蹟的なほどの普及である。

☞出典:『街道をゆく』18
越前の諸道(朝日文庫)

 

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