司馬さん一日一語☞『蝶』


私は、
蝶という言葉が、
上代日本人にとって
外国語であることが
気になっている。

蝶、音はテフ。
テフという古い中国語の音は、蝶がその羽をにわかに翻しつつひらひら飛ぶさまから来ている。
人間の暮らしの中にありふれて存在しているこの鱗翅目の昆虫を呼ぶのに、わざわざ外来語を使ったという上代日本人というのは、どういう事情によっているのであろう。
しかも上代日本語で蝶をどういう名で呼んでいたのか、古い言葉が今に伝わっていないのである。
遠い昔、この島に住んできた人々が、この生物に無関心だったからに相違ない。

試みに『万葉集事典』の「てふ」の項を引いてみた。
やはり「万葉集」の中で蝶という言葉は歌語としては用いられていない、という旨のことが書かれている。
万葉人が蝶を詠まず、蝶が点在する風景も詠まなかったというのは、即断はできないにしても、当時の日本人が蝶についての関心を薄くしか持っていなかったことを表しているように思える。
ただ「万葉集」に、漢詩がわずかに掲げられている。
その漢詩の中には蝶が詠まれていて、例えば「庭には新しき蝶舞ひ」とか「戯蝶花を回りて舞ひ」というようにして登場する。
万葉人で漢詩という外国語で作る場合においてのみ蝶を登場させるというのは、蝶という生物が文学的もしくは造形的に美であるということを外国文化の指導と共に知ったということを表しているようで、おもしろい。

蝶は、元来、日本の山野を飛んでいた。
しかし未開の認識としてああいうモノは食えないということでしかとらえられていなかったものが、外来のモダニズムの中においては、美意識という新たな観念の世界に位置づけられた。美意識というレンズを通すと、ただの虫が新鮮なものに見えてくる。
蝶が、なまの中国語そのままで呼ばれてそのまま日本語に組み入れられてしまったという事情は、おそらくそういうところにあったにちがいない。
同時に、我々が今でも「蝶」という文字や語感に、一種のきらびやかさとモダニズムを感ずるのは、語感と遺伝性(私はそういうものが言語の心理にはあるように思う)によるものかもしれない。

☞出典:「基礎国語2」(学校図書)

 

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