司馬さん一日一語☞『我』


“我”(が)
というのは、
わたしなら
私という者の
しんらしいのです。


“我”(が)は古代インドの正統バラモン思想の淵源とされる『奥義書』(ウバニシヤツド)の世界では、アートマン(梵語=サンスクリット)というまことにひびきのいい単独の術語であらわされています。
個我のことです。
中国仏教や日本仏教では、ただ単に“我”といいます。
近代以前の日本語世界で、「あの人は我がつよい」とか、「我利我利亡者」とか、「我を殺せ」とかいうように大変虐待されてきた概念です。

しかし本来の仏教にあっては、個々の生命は“我”であり、“我”はすばらしいものになる可能性をもったものとされます。
ただし、仏教はつねに二律背反的な表現をとります。
“我”は幻だともいいます。
大変ややこしい問題をごく簡単に申しますと、霊魂(ソウル)がキリスト教の根本思想に根ざしているように、“我”は仏教の根本思想に根をもっています。
ところが、キリスト教が、霊魂はどうあるべきか、というのに対し、仏教では、我を説きつつも「“我”など実在しない」というのです。
「いわば幻である。“我”は絶対的に実在しているものではなく、“縁起”として(関係として)存在しているだけのものだ」とにべもありません。 
縁起というのは「縁起がいい」のあの縁起のことです。つまり相対的な関係性のことです。
“あれが生じたから、これも生じる”というようなものです。
“あれが滅したから、これも滅する”あるいはそれが縁になって“生ずる”ということでもあります。

 

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