司馬さん一日一語☞『下克上』


「下克上」
というのは
足利時代初期から
戦国にかけての
風潮であり
流行語であった

が、この言葉を編み出し、頻用したのは、
公家貴族と公家化した有力寺院の僧侶で「下、上に剋(か)つ」という下のほうを悪罵してつかったことばである。
上から見れば、応仁・文明ノ乱を頂点とする下克上現象は悪の華であった。
しかし歴史のうえからみれば、革命としか言いようがなかった。
ただし近代のような革命意識や理論などなく、ほとんど生物学的にともいえるほどに無意識性で揺れうごいている。

この時代を、外来の朱子学的善悪史観をもって、尊王を善とし非尊王を悪とするのは、人間の世というものを解しない滑稽な書生論にすぎない。
基本的には、平安期などにくらべて、農業生産が飛躍的に騰がっているのである。
農民自身が自立能力をもち、農民一人の生産力で数人の遊び人(武士など)を養えるようになっている。
社会の底辺において、農民と悪党(当時の流行語。農民と結びついた在地の成りあがり武士)が勢力を得、党を結んで、点ではなく面としてひろがっている。
かれらは、既成の中世勢力をきらった。
たとえば、
京都で居ながらにして遠い荘園から貢米を運ばせている尊貴な—たとえば関白一条兼良のような—-遊民との縁を断ちたかった。

足利氏は京都で幕府をひらくと、なかば公家化してしまった。
その直参である守護家は中世貴族のように京都に住み、領地のことは家来の守護代にまかせた。
越前守護の斯波氏もそうである。
農民にすれば、—むかしとおなじではないか。ということがあったろう。
かれらは「悪党」を押したて、悪党は守護代と主従関係をむすび、
やがて守護代に、—-京都と縁を切りましょう。

と、焚きつけ、越前なら越前を領国化し、公家領、寺社領を押領し、当時としては合理的である堅牢な封建体制をつくろうとする。
下克上の本質はそこにあった。

☞出典:『街道をゆく』18
越前の諸道(朝日文庫)

 

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