司馬さん一日一語☞『べに』


べにという日本語は、
古くはあっても
もっぱら紅をべにと
言いなじむのは、
室町ごろからでは
ないか。

『万葉集』のころは、べにといわず、くれないとよんでいた。
その植物およびその色を指す。
語源はたれもが想像できるように、呉(くれ)の国からきたあい(藍)—-呉藍—-であることはまちがいない。
いうまでもなく藍は上代では染料一般の意味にもつかわれていた。
また、『万葉集』の時代では、べつに『末摘花』ともよんだ。
江戸期では山形県といえば紅といわれ、最上紅の名をほしいままにした。
そのくせ山形県に紅花が入るのはずいぶん遅く、戦国期であったらしい。
「べに」という言葉が盛んにおこなわれ、くれないが死語に近くなるのは、植物の品種が交替したせいではないかと思われてならない。いまの地名でいえば山形県西村山郡河北町に谷地という土地がある。
戦国のころ、ここに白鳥長久という野心家が城主になっていたが、織田信長にはるばる使いを出して良馬を贈った。
信長はよろこび、これに紅花を与えたという。
「植えよ」ということであろう。
天正五年(一五七七)のことである。
信長がわざわざ遠国の城主に返礼として紅花の種苗(とおもわれる)を与えたというのは、紅花の種苗が当時めずらしかったということが想像しうる。
外来種であったことも想像しうる。信長自身、貿易家の側面をもっていた。
遠国の侍どもを驚かすには珍奇な舶来品をやるのが一番だったし、信長の慣用手段でもあった。
信長は紅の国産化を考え、中国産紅花の適地をさがしていたのではないかという想像もなしうる。
偶然、白鳥長久の城のある山形県村山地方が日本で最適の土地であったために、江戸期になるころには圧倒的に良質の「最上紅」を出すにいたるのである。

芭蕉は尾花沢の紅花商人鈴木八右衛門のもとで滞留中に、有名な紅花の句をつくっているのである。
 まゆばきを 俤にして 紅粉の花
俤(おもかげ)というのは美しい日本語だが、殺風景な意味解釈をすれば連句の術語にすぎない。
しかし俤が句を作る上の術語であるなどを知らずに単に俤・面影・おもかげという日本語のそこはかとない気分でとらえて感じるほうが、この句の理解にもっとも素直な態度といえるかもしれない。

※「紅花は、どこで栽培されているのですか」「出羽じゃないかね」と、運転手がいった。
この場合、出羽とは山形県の国名を指さず、羽州街道ぞいの小さな字の名前らしいが、いまは五万分の一の地図からも地名が消えている。天童の南郊の、羽州街道に面した漆山の付近らしい。

☞出典:『街道をゆく』10
羽州街道(朝日文庫)

 

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