司馬さん一日一語☞『わび』

わびとは
華やぎに
裏うちされた
ものであり、
単なる
シオレタルモノ
ではない。

茶道ではワビとかサビとかいうが、室町から織豊期にかけての貴族・富裕階級で発展したそういう美意識は、われわれ庶民の感覚からみればひとひねりもふたひねりもしたもので、たとえば、賤がいぶせき苫屋に千金の馬をつないだのがワビである、などとこの時代の茶人はいう。
そのあたりの呼吸が、茶道であろう。
賤がいぶせき苫屋で薄よごれた湯帷子姿のばばあが水をのんでいるだけではただ貧乏くさいばかりで、ワビにもサビにもならないのである。
茶道にあってはそういう苫屋に、千金の馬をつながらなければならない。
そんな馬をもっているほどの貴人、権勢家、金持が、その苫屋にひざを入れてすわり、客と対座しながらしずかに茶を喫している。
考えてみればキザったらしいものだが、その金持のキザがやがては道楽にまでみがきあげられ、その後、利休などの天才が出るにおよんで日本独特の芸術意識がつくりあげられるにいたるのだから、もはやそうなるとキザとはいえない。

わびとは華やぎに裏うちされたものであり、単なるシオレタルモノではない。
賤がいぶせき苫屋は、貧乏くさくはある。
そこに千金の馬をつないだとき、風景が一変して茶の世界になるのである。ルソン(フィリピン)の壺もくればコーチン(ベトナム)の香合もくる。
緑と黄の原色で彩られたいわゆるコーチン釉を見たとき、ひとびとの心は、烈しい太陽と海のむこうの文化を、ありありと想像いえたにちがいない。
露地奥の茶室は暗く狭いが、そこには世界に通じようとする心と、げんにいきいきと通じている異風土の美があったのである。
そこでは、広い世界に出てゆこうとする心のたぎりさえあれば、たれでも参加できるのである。
そのたぎり心を狭い茶室のなかで鎮めきって茶をのむところに、はじめてさびの世界があらわれ出るのであり、さびは枯れて衰弱した老人の世界ではない。
壮年の世界そのものである。

☞出典:︎『歴史の中の日本』(中央公論社)

武野紹鴎は「正直に慎み深く、おごらぬさま」と定義している。
また利休の一の弟子だった山上宗二も、その『記』に、侘数寄の条件として「一物も不持」(いちぶつももたず)と書いている。
利休の孫宗旦にいたって、侘びはさらに深まった。
その『茶禅録』では「侘とは、物不足して、一切我意に任せず、蹉跎するなり」という。
『山上宗二記』のなかで、侘び茶の元祖の村田珠光が、藁屋に名馬つなぎたるがよしといったという。
この場合、千金の名馬が、意外性であり、藁屋と二律背反をなし、その二律を統合するのが、茶の湯であるらしい。
珠光はさらに、粗末な座敷に名物を置くと、風体が猶もっておもしろくなる、といっているが、そのおもしろみをつくりだすのが、亭主の精神の力というものなのである。茶に禅が必要なのは、この機微のなかにある。

▶︎出典:『街道をゆく』34 大徳寺散歩、中津・宇佐の道(朝日文庫)

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