司馬さん一日一語☞『灘』

普通名詞の
灘の文字は
国字ではなく
漢字である

その意味は、つい漢字にひきずられて「潮の流れの速い海」と解されるが、たしかに黒潮の流れる熊野灘などはそれにあたるにしても、摂津の灘をはじめ、日本列島の他の多くの灘のつく海<遠州灘など>は、他よりとくに潮流が速いとはいえず、ささやかな沿岸流があるだけである。
灘という文字は、むしろ国字と考えたほうがいい。
阪神間の灘地方をうたった古歌は『新古今集』や『続後撰集』などに見られるが、みな沖へ漕ぎ出た舟人の側に立つ気分から詩句が作られている。
沖で、逆風に遭えばすばやく帆をおろして漕ぐか、いそぎ間切りをしてもよりの入江に逃げこまねばならないが、そのような逃げこみ可能な入江のない長汀の沖を灘という場合が多い。
要するに、舟人がその海域をそのように名づけたわけで、陸の者が称んだわけではない。
西鶴の『日本永代蔵』の巻四の、筑前博多に住む商人で、長崎貿易をするうち、「海上の不仕合」(海難によって積荷をうしなう不幸)に何度か遭って落ちぶれてしまった、という叙述のなかに、
俄に何に取付嶋もなく、なみの音さへ恐ろしく、孫子に伝て舟には乗りまじきと—–
という文章があるが、とりつく島もない、ということばも、江戸期の内国大航海時代というべき世の産物であり、もとは船乗りがつかった表現にちがいない。
沖から陸をながめて入江もなく、かといってとりつく島もない海こそ漁夫や船乗りにとって灘であった。

 

出典:『菜の花の沖』三 あとがき(文春文庫)

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