司馬さん一日一語☞『洞が峠』

順慶は
日本語の語彙を
豊かにすることに
貢献した。

天正十(一五八二)年、信長は本能寺で光秀に討たれた。
当時、秀吉は備中にあり、軍を大返しに返して山城の山崎で光秀軍と対戦した。
このとき、戦場にちかい大和にいる筒井順慶へ「戦場に参同せよ」という使者を走らせた。
同時に光秀からも誘いの使いが順慶のもとにきた。
順慶は大軍をひきい、山崎の戦場を見下ろす岩清水八幡の山—洞が峠(ほらがとうげ)—まできたが、しかしそれ以上は動かなかった。
眼下の戦場を見つつ勝敗の決するまで待ち、やがて秀吉軍が勝ったとみてからすばやく山を降り、秀吉方の織田三七の陣へ伺候して大いに戦勝を祝賀した。
順慶は日本語の語彙を豊かにすることに貢献した。
こんにち、この種の倫理行為について「洞が峠をきめこむ」という言葉がなければ不便である。

戦国期は権謀の時代ではあったが、同時に、生と運をつねに賭けている時代のるつぼのなかで、潔さという倫理意識が陶冶された時代でもあった。

☞出典:『街道をゆく』17
島原・天草の諸道(朝日文庫)

 

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