司馬さん一日一語☞『入れこむ』

耳にさわるのは、
「入れこむ」という
動詞である。
たとえば、
「最近、釣りに入れこんでいます」
というふうに、である。
熱中する、という
意味らしい。
おそらく。


『入れあげる』の誤用かとも思われる。

入れあげるは、主として遊郭があったころの言葉で、なけなしの
カネをその女郎ひとすじにつぎこむことをいう動詞だった。

「ここんとこ、なかの太夫に入れあげて、空っけつだ」というふうに、職人のあいだでつかわれた。
一方、「入れこむ」とは、旧軍隊の騎兵などでの方言だった。
馬が厩舎で、騒ぐ。一頭だけが
前脚をばたつかせたりするさまをいう。
転じて、人間があわてるさまをいう。
「タバコ屋の前であろうことか、借金とりに遭ったんだ。つい入れこんで、タバコ屋の娘をつかまえて、豆腐一丁くれ、というと、娘が笑いもせずに、豆腐屋さんなら筋向いですよ、と言いやがった。おらァ、すっかり馬みてえに入れこんで」だから“熱中する”という意味ではない。
ここで、タバコ屋の娘が評判の美人だったとする。
町内の若衆が日に二度も三度もタバコを買いにゆくさまのことを
『入れあげる』というのである。

泡を食うほうの“入れこむ”は軍隊方言だから辞書にはない。
小学館の「日本国語大辞典」のその項をひくと、
『いれこみ』という名詞は、まったく別の意味である。
大正時代の鰻屋などは、土間から畳敷きになっていた。
客を、老若男女見さかいなしに入れる。
つまり入れこむ。
「あの店は入れこみでね。話も何もできなかったよ」

☞(「日本語の最近」から)

 

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