司馬さん一日一語☞『この世』

日本人は、
「この世」
ということばが
大好きなのである。

この世はままならぬ、とか、この世はつらい、とかいう。
このばあいの「この世」とは、「あの世」の対語で、浮世、というほどの意味だ。
むろん、中世末期以降の浄土教の信仰が民間にしみこんでからできた俗語で、われわれの祖先たちに厭世的な気持ちが、このことばにしみついている。
王朝から江戸までの文学をみると、ほとんどが感情的厭世主義のものばかりで、日本人とは、なんと「この世」をこうもナガナガと悲しみ暮らしてきたかと、嘆じたくなるほどだ。
そのくせ、日本人は、「この世」ということばが大好きなのである。
この世という言葉によりかかることによって、甘い感傷の涙をこぼせるからだろう。
「諸行無常」という。
インドの荒くれた自然のなかで、つまり洪水と熱暑と不毛という人間の生存そのものの危機がつねにあるガンジス、インダス両川の流域のなかでうまれたこの豪快で喧噪で知的な人生観、自然観も、いったん日本に輸入されてくると、鴨長明の「方丈記」のような趣味的、感傷的ななよなよとしたものになってしまう。
あまい涙に変えられてしまうのだ。

 

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