司馬さん一日一語☞『木地屋』(きじや)

木地屋は、
漂泊のひとびとだった。

木地屋とはいうまでもなく、ロクロをもってお盆やお椀などの挽物
を粗挽きする上代以来の山林の職業人のことである
(日本の誇るべき漆工芸品の基礎—形づくり—はかれらがうけもったのである)。

木地屋は漂泊のひとびとだった。
平安初期の文徳天皇の子惟喬親王をもって、血統の祖もしくは
職業上の祖としている。

かれらは、山々を歩き、気に入った木を自由に伐った。
とくに、ブナやケヤキ、トチのよさそうな木があると、
たれに断るもなく伐って、山小屋でロクロをひき、里のものと物々交換した。
ほしい木がなくなると、他の山へ移ってしまう。
この漂泊のことを、かれらの術語で、渡(わたり)といった。

木地屋たちは、木選びのために山の高さや斜面の方角に過敏だった
ろうということが容易に想像できる。ネゴロとは、かれらの地理用語だったと思うのである。

「ごろ」という日本語は“ちょうどよい程あい”という意味がある。
たとえば“メロンの食べごろ”とか“中日をすぎた芝居は見ごろである”とか“年ごろの娘さん”
といったぐあいのごろである。

中世の武士たちがよくつかったことばに
「矢ごろ」というのがあった。
“矢を射るのに命中しやすい距離”ということである。

 

☞出典:『街道をゆく』32
阿波街道、紀ノ川流域(朝日文庫)

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